村上春樹とNikonD40の共通点
火曜日, 5月 18th, 2010醜悪で難解で泥臭くて、悪意に満ちた感情であふれている現実を、魅力に満ち活動的な風景や心象にあっという間に変換してしまうギミック、これが、村上春樹とNikonD40の共通点だ。
村上春樹の小説と聞いてどんな本を思い出すだろう? 最新作の「1Q84」? 少し前の「ねじまき鳥クロニクル
」? それとも「1973年のピンボール
」だろうか。
そして、思い出した本のストーリー、登場人物、舞台となった街をあげてみろと言われてしまうと私は困ってしまう。正直に言って、覚えていないからだ。ほとんどまったく。きれいさっぱりと。特に一番重要なはずの主人公の名前が、皆目記憶に残っていない。
逆に、ぼんやりと出てくるのは、羊男であり、ジェイであり、主人公の作るサンドイッチ、そしてその場にありありと存在する空気感だ。
村上春樹の描写によって、ついさっき自分自身が行ってきた取るに足らない行為、例えば皿洗いが、つややかに滴る水とふっくらと乾燥した「いるかホテル」のタオルで拭かれる様が実に魅力的に描かれる。
現実に見える風景を途方もなく蠱惑的に変えてしまう。これが村上春樹の文章の力だ。そして、明確に記憶に残っているのは、登場人物でもストーリーでもなく、この魅力的に変換された現実描写だったりする。
さて、一方のNikonD40は、古い古い一眼レフデジタルカメラの入門機だ。何せ私が入門したのがこのカメラだ。
手ぶれ補正無しで、揺らせばぶれる。ファインダー越しに向こう側をのぞき込み、できあがりの映像を予測しながらシャッターを切る古くさい仕様。ピントは顔になんか合わせちゃくれないし、マニュアルで上手いことやらないと一番前にしかピントが合わせられない。
しかし、美しかった。
裸眼で見ればぼんやりと灰色にけぶったような風景を、まるでそれに降り積もった灰色のほこりをきゅっとぬぐいさった様にすきっとした映像がそこにはあった。例えば、暗くなりかけた蒼空を背景にした赤い塔、例えば木々の隙間からこぼれ落ちる柔らかな光と影、何の変哲もない雑然とした部屋。彼らが、実物よりもあでやかにNikonD40の2.5型の液晶に焼き付けられていた。
いつもいつも現実風景を変換して脳に届けて、すり切れて古ぼけて疲れ切ってしまった自分のフィルターでない、村上春樹、あるいはNikonD40というフィルター、第三者的視線は、この上もなく魅惑的で蠱惑的でずんと刺さる。
さて、今度の「1Q84」は、いつ楽しもうか。